名は体を表すか

よくよく考えてみると、人の名前ほど不釣合いな物も無いことに気付く。
例えば、参考書は勉強の参考となる本であるから参考書で良い。
だが、太郎と言う名前は何を表しているのか、いまいちよくわからない。
諺に名は体を表すとあるが、どうにも格言めきすぎていている。
そもそもに、名と体の前後関係が不明瞭だ。
『体を表すために名を付けた』のか、『名を表すために体を為した』のか判らない。

苗字は代々受け継がれているので、つまりその苗字はその人間が生まれる以前から決まっていたものである。
ということは、その名は体を表す為のものとして付けられたものではない。
遠く考えてしまえば、先祖がこの家はこうあって欲しいと願った結果その体を表す為の苗字を付けた可能性も無くは無いが、多くの苗字を見る限りどうにもそう言うことは無さそうだ。
『田中』という苗字を持つ人間性を『田中という苗字』が表さないように、この考察からすると、苗字は人間性、つまり名は体とは無関係のように思える。


しかしながら、苗字に対する名前には少なからず、自分が生まれたときに親に期待されるような要素を持つものがある。
『博』という名前には多くの物事を知って欲しいという願いがあるのかもしれないし、『武』と言う名前には強くあって欲しいという願いが掛けられているのかもしれない。
これらのような名前はその人の将来の人間性を期待した名であって、つまり『名』を先につけて『体』を待っている名前である。
だが中にはそれに相反する形として、『太郎』『一郎』といった、順列を表すような名前も存在する。
これらは太くあって欲しいだとか、一番であって欲しいといった願いを掛けられて付けられた名前のようには思えない。
つまりこれらの名前は『最初に生まれた子供である』という事実たる『体』を表す為の『名』である。


このような視点から見てみると、実は苗字と言うのは後者の位置付けにあることが想像できる。
田中とは、『田んぼの中』という『存在』、つまり『体』を表す表意としての『名』。
高橋とは、『高い橋』という『存在』、つまり『体』を表す表意としての『名』であることが判る。
逆に、『名』を付けられて『体』を為したような苗字と言うのは余り例が無いように思う。
むしろ、そういった観点で見ていくと名が先にありき体とは実は珍しいものである。

有隣堂と言う名前は少なくとも私にはそういった存在の一つだ。
とても小さい頃には元々、家の近くに有隣堂は無かった。紀伊国屋があった。
隣に無い有隣堂はつまり矛盾した名前であったが、少しして引っ越した家の近くには有隣堂があった。
もちろん移動したのが自分であるから、有隣堂自体が物的な変化を起こしたわけではないが、存在としては質的な変化を起こしたのだ。
便利だからコンビニエンスストアと名づけられても、そのうち不便になってしまったらそれは実質的にコンビニエントでないにも関わらず名前はコンビニエンスストアである。
これは、名先にありき体を目指そうとして失敗した例とも言える。

このように、『名を表して体を為す』タイプの名前は存在自体が稀有であり且つ成功するかどうかも未知数なのであるが、ここに来て人の名前と言うのがそのタイプであったことを思い出す。
私の名前『編』は『編物をするようにこつこつと物事を積み重ねていけるような人に』なって欲しいという希望から付けられた『名』であったが、これは失敗例と言える。
だが私はそれでも、『太郎』や『一男』といった『体を表す為に名をつけた』名前よりはこうした『名を表して体を為そうとした』タイプの名前のほうが気に入っている。
それは苗字が『体を表す為に名をつけた』物であるから、その前後の持つ矛盾性が気に入っているというのもあるが、少なくとも希望をもっている点で人間味があって然りと思うからだ。
しかし、『太郎』もなかなか悪くない。
自らに当てられた名前は記号的なものであるから、そこからの発展が自由極まりないことを考えれば、そうした名前も悪くは無いのだろうと思う。


こう考えてみると最近の子の良く判らない名前付けセンスというのは、実は悪くないものであることが判る。
月下美人と書いてハニーと読ませるとか、世乃神と書いてせのかと読ませるとか、別に構わない。
ただその子の人生と自分への評価さえ気にしなければ、大体の本質的意味は消え去ってしまうだろうから。
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