日本に『投資』する、日本を『憂慮』する日本人を間引きしたらどうかな

RHEOSの藤野社長 : 800万円→100万円→1億円達成の株式投資術
を読んだ。

経済学かじってもいないからそう言う方面のことは判らない。
それを置いておくとしてなるほど、私から見ればナショナリストに見える人間は日本についてこう考えているのかと考えさせられた。

以下要旨。

  • 日本には活気が無い

活気ってなんだろう。
株主にとっての活気?経営者にとっての活気?
とりあえずお金絡みの視点で見た場合の活気なのだろうけれども、ここは僕には良くわからなかった。
そもそも活気が無いってことは、活気がある国があって、平均的な活気が導き出せて、それに比べて活気が無いと言うことになると思うけれど。
先進国、あるいはそれに準じた国を見て考えると、そこまで日本に活気がないとは思えない。

  • 弱者を守る無駄な規制が多く、無駄だ

その通りでしょうね。

  • 日本は自国に閉じ篭っているから、世界へと羽を広げようとするべきだ

開国せよって感じか。
まあお金を得ようとするならそれでいいのかも知れないね。
ただこれの前提条件に、『日本で』金を得ようとするなら、がある。
これが根本的な問題じゃないの?

引用と同意見らしいので、引用から。

  • 多国籍企業は総外国人。その企業は日本を乗り越え成長できる
  • 日本には資源が無い。世界と共存する以外道は無い

この辺りになると、宗教臭がする。
「外国人企業に手を貸せば成長できる。世界と共存する以外道は無い。だから開国しろ」
そんな感じにも見える。
なんだそれ。


こうなると、もう彼らが『日本で』金を稼ぐ理由が判らない。
本当、日本から消えてしまえば良いと思う。
つまりは日本に絶対的価値があると考えていて、その既得権を手放したくないだけか。
そうなんじゃないのかな?
本当に一人で金を稼ぎたいならさっさとその多国籍企業とやらを引き連れて、海外へ移住してくれ。


少子化の問題って、読んで字の如く子供が少ないから困ってる。
つまり、大人と子供の比率に問題があるわけでしょう。
老人とそれ以外の比率に問題があるわけでしょう。
それなら、年取った連中や大人の数十パーセントは海外へ行ってしまえば良いと思うんだが。
総人口が減れば食糧自給率も上がる。
公害も減るし、ゴミの量だって減る。通勤列車も楽だ。
アメリカかぶれが減れば少しは安心して暮らせそうだし、韓国かぶれが減れば言うことなしだ。あ、勿論在日韓国人は全員帰れ。養う余裕なんて無い。働く為にいる奴等は可。
人口が減れば使う資源だって減るしね。
節約に耐えられないなら資源の有り余ってる国へどうぞ。中東とか良いと思うよ。


だってそもそも、ねえ。
日本が嫌いって言ってるなら日本に住むなっていう話であって。
今の日本が嫌いだから昔のようにしたいっていう人は違うぜ。
ニューヨークスタイルとか馬鹿にしてるのかと思う。ニューヨークへ行け。
だから日本に『投資』しようなんて考えてるなら海外から投資してみたらどうかな。
それでも儲けられるなら良いんだろう。


そして日本に残ったのが、日本で生きたい大人と純粋な子供だけになったら子供に昔話をしよう。
『昔々、あるところに外人と外人気取りと日本人がいました。外人は外国で悠悠自適の暮らしをし、外人気取りは外国でお金とお洒落にまみれてそこそこの暮らしをし、日本人は人口の減った日本で広くてのんびりした、質素な生活を送りましたとさ』

生きること自体の価値

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/934300.html
を見て。
自分の話ではない。


少なくとも、今認識できる限りの人間は皆生きているわけだが、そもそも生きてるの定義がわからない。
医学的な定義を指すのだろうか。
とすれば、瞳孔が開ききっていなく、呼吸をしていて、脳が動いている人間が生きている人間と言うことになるが、それを一人一人確認する術はない。
だから僕は何も信じられないとか、そういうことではない。
加えて言えば、僕自身自分が上の項目に該当しているかどうかなんて正しく判りえない。
とはいえ、皆が生きていることにしないと話は進まないから、ここでは断定的に皆が生きていることにする。


本質的に言いたいのは上のような学術的なことではなくて、多くの人間が『生きることそれ自体に価値がある』と考えているというくだりについてだ。
だから彼らは、死を選んだ人間に価値はないと主張するか、あるいは思う。
裏返せば、他人や自分は生きているからそれだけで価値があると思っている。
故に価値のある人間は、価値のない故人間をそれだけで一種区別できるという妄想に囚われている。
これは、いわゆるゆとり教育だとか、団塊世代に似ている。
違うのはそれが不可逆的な物なのか、それとも不可逆以前に変わらない物なのかというてんであるが、本質的な意味として、ゆとり教育を受けた人間と、団塊世代の人間と、死んだ人間というのは何ら変わらない意味を持つ。
何故なら挙げた全ての人間は自身ではもうどうすることも出来ないにも関わらず、絶対的多数に(時間経過で代わり行くが)よって何の証明も必要とせずに、非難の対象となり得る存在であるからだ。
また、それらを非難する行為は、非難するもの自身の相対的な価値を上げることにも繋がり、安易な自己実在証明となるから、手段として多用される。


ステレオタイプな物の見方として、死んだ人間は弱いという考え方がある。
自分にやれた(生きてこられた)のだから他人に出来ないはずはないという、極めて自分中心主義の考え方でもある。
理解力が足りないか、あるいは明晰出来ていない。
また、人間は死なないものであるという見方をする者も多い。
今生きているここが、たまたま生でいつづけることを選んだ者の集合であって、そこに自分があるということが、何の意味を持つのかということは考えなければならない。
別段死亡すること自体に恐怖は存在せず、その恐怖はコミュニケーション社会からの脱落に起因する。

名は体を表すか

よくよく考えてみると、人の名前ほど不釣合いな物も無いことに気付く。
例えば、参考書は勉強の参考となる本であるから参考書で良い。
だが、太郎と言う名前は何を表しているのか、いまいちよくわからない。
諺に名は体を表すとあるが、どうにも格言めきすぎていている。
そもそもに、名と体の前後関係が不明瞭だ。
『体を表すために名を付けた』のか、『名を表すために体を為した』のか判らない。

苗字は代々受け継がれているので、つまりその苗字はその人間が生まれる以前から決まっていたものである。
ということは、その名は体を表す為のものとして付けられたものではない。
遠く考えてしまえば、先祖がこの家はこうあって欲しいと願った結果その体を表す為の苗字を付けた可能性も無くは無いが、多くの苗字を見る限りどうにもそう言うことは無さそうだ。
『田中』という苗字を持つ人間性を『田中という苗字』が表さないように、この考察からすると、苗字は人間性、つまり名は体とは無関係のように思える。


しかしながら、苗字に対する名前には少なからず、自分が生まれたときに親に期待されるような要素を持つものがある。
『博』という名前には多くの物事を知って欲しいという願いがあるのかもしれないし、『武』と言う名前には強くあって欲しいという願いが掛けられているのかもしれない。
これらのような名前はその人の将来の人間性を期待した名であって、つまり『名』を先につけて『体』を待っている名前である。
だが中にはそれに相反する形として、『太郎』『一郎』といった、順列を表すような名前も存在する。
これらは太くあって欲しいだとか、一番であって欲しいといった願いを掛けられて付けられた名前のようには思えない。
つまりこれらの名前は『最初に生まれた子供である』という事実たる『体』を表す為の『名』である。


このような視点から見てみると、実は苗字と言うのは後者の位置付けにあることが想像できる。
田中とは、『田んぼの中』という『存在』、つまり『体』を表す表意としての『名』。
高橋とは、『高い橋』という『存在』、つまり『体』を表す表意としての『名』であることが判る。
逆に、『名』を付けられて『体』を為したような苗字と言うのは余り例が無いように思う。
むしろ、そういった観点で見ていくと名が先にありき体とは実は珍しいものである。

有隣堂と言う名前は少なくとも私にはそういった存在の一つだ。
とても小さい頃には元々、家の近くに有隣堂は無かった。紀伊国屋があった。
隣に無い有隣堂はつまり矛盾した名前であったが、少しして引っ越した家の近くには有隣堂があった。
もちろん移動したのが自分であるから、有隣堂自体が物的な変化を起こしたわけではないが、存在としては質的な変化を起こしたのだ。
便利だからコンビニエンスストアと名づけられても、そのうち不便になってしまったらそれは実質的にコンビニエントでないにも関わらず名前はコンビニエンスストアである。
これは、名先にありき体を目指そうとして失敗した例とも言える。

このように、『名を表して体を為す』タイプの名前は存在自体が稀有であり且つ成功するかどうかも未知数なのであるが、ここに来て人の名前と言うのがそのタイプであったことを思い出す。
私の名前『編』は『編物をするようにこつこつと物事を積み重ねていけるような人に』なって欲しいという希望から付けられた『名』であったが、これは失敗例と言える。
だが私はそれでも、『太郎』や『一男』といった『体を表す為に名をつけた』名前よりはこうした『名を表して体を為そうとした』タイプの名前のほうが気に入っている。
それは苗字が『体を表す為に名をつけた』物であるから、その前後の持つ矛盾性が気に入っているというのもあるが、少なくとも希望をもっている点で人間味があって然りと思うからだ。
しかし、『太郎』もなかなか悪くない。
自らに当てられた名前は記号的なものであるから、そこからの発展が自由極まりないことを考えれば、そうした名前も悪くは無いのだろうと思う。


こう考えてみると最近の子の良く判らない名前付けセンスというのは、実は悪くないものであることが判る。
月下美人と書いてハニーと読ませるとか、世乃神と書いてせのかと読ませるとか、別に構わない。
ただその子の人生と自分への評価さえ気にしなければ、大体の本質的意味は消え去ってしまうだろうから。
http://dqname.selfip.net/

そこに責任はあるだろうか

http://specificasia.seesaa.net/article/34304786.html
見事な対応というしかない。
そもそも、マスコミの詰め寄りに対し返答する必要などあるのだろうか。
公の場所でいきなりマイクを突きつけてきて、周りを数十人レベルで囲み、身動きを取らせないようにする人間に、例え明確な悪意が無かったとしても、それは人道的に・法的に許されるものなのだろうか。

私は当然許されないものだと思うからここに書いている訳だが。
自分が囲まれたらと言う話ではなく、見ていて不快である。
また、こうした形の取材をする正当な理由も判らない。
会見で質問すればいいのではないだろうか。
時間が無いから会見で質問できなかったというなら、ここでも時間が無いのは当然だろう。
1m無い距離で話さなければ判らないなどというのは酷い虚言である。
そして解答しなければニュースでアナウンサーを使って批判する。


故に、囲まれてしまえば事実上終わりといっても良いのだ。
それだけの特権をマスコミは有している。
であるから、麻生の対応は見事である。
「言わない」という言葉で言うことを制しているわけで、そこに反論の余地はあれども詭弁にしかならない。



まあ何が言いたかったかというと、
麻生「禁則事項です♪」
くらい言っても良かったんじゃないだろうかと。

ジャンル分けは知識人の保身の為にある

ジャンル分けをする人間には2種類〜4種類いると考えられ、しない人間も2種類いると考えられる。

ジャンル分けをする理由の一つが

  • そのほうが判り易い

という単純な動機に基づくものであるが、この理由のみでジャンル分けをする人間が1種。
この種類の人間は物事をあまり追及しようとしない(要領がいいとも、頭が回らないとも捉えられる)故に、ジャンル分けによって物事を判り易く整頓し、利用する。
もう一つの理由が

  • 知識、あるいは思考能力の披露の為

だと思われる。
上記二つを併用、あるいは後者のみでジャンル分けをする人間が2種。
この種類の人間は物事自体ではなく、物事を理解・整頓することに重きを置く。
分類者が自覚していようといまいと本末転倒であるが、このうち前者、二つを併用しようとする人間の分類は傍から見て理解、共感しやすい分類分けになることが想像できる。
後者の分類は本人の自己満足による部分が大きいせいか、他者からの理解は得られないことが多いが、分類者は他者から評価を得たいが故に分類をしているので報われないことの方が多いゆに思われる。


ジャンル分けをしない一つの理由は

  • そのままで良いと考える思考

によるものであり、さらに二つに分化でき、一つが

  • 理解放棄

であるが、この種類の人間は単純にその物事に興味が無いか、あるいは分類自体に興味が無い。
知能の差で決まるものではないが、レベルとしては比較的多くの人間が相当する。
もう一つの分類は

  • 一元論的思考

であると言え、渾然一体となっているから良いのだと言うものが多い。
これも理解放棄の一つの形ではあるが、特徴的である点は、積極的に理解を放棄している点である。
仏教的な哲学感とも取れるが、合理的な考えとは程遠く、旧来的な日本人には比較的多く見られる。
また、分類者に対して相互に優越感を持っており、分類側にしてみれば『低脳』と見られがちだが、一元論側にしてみれば『知ったかぶり・高慢』と見られがち。


と、分類してみるテスト。懐かしい響き。

文章の価値、文学先入観

誰しも原初体験を持っている。
そしてその全ての出来事が一つの出来事から発生したのだ、という考え方は非現実的で、もしその考え方をするなら文学も発生源を宇宙とかに求めることになるはずだ。
故に、個人における原初体験というものはあくまでその人が最初に出会った一つの体験であって、その体験が世間一般あるいは模範的な解答に於いて普遍的な一致をするということはまずありえない。
例をあげてみると、ライトノベルで始めて活字を知り、読み進め、独自の価値観を知った少年は、それ以後に読んだ文学を『これはライトノベルとはこう違い、こう同じだ』と判断するであろうが、その価値観の基準にライトノベルがあるのはあくまで彼がライトノベルという環境で成長してきたからであり、別の人に言わせれば、その文学はライトノベルを基準に考えるべき文学ではないと捉えられることもしばしと言える。


さて私達が常日頃現代文学と呼ぶ小説を基準として考える、現代における普遍的な考え方をする人物がいたとして、彼は本当に人類として普遍的な存在であろうか、いや言うまでもなくそんなことはない。
普遍とは何か、を追求するまでもなく、彼は現地球上で普遍的存在では勿論無い。
過去の人間の普遍的基準であった過去の文学は現代に於いて過去の文学であるから、つまり普遍的基準と呼べるものは存在しない。

現代における主流が現代小説であるという見方においては勘違いも甚だしい。
何を持って主流としているのか。
売れているからか、歴史があるからか。
文学の面白さなど、個人の価値観で決まるものであるし、その現代小説を面白いと言う現代人が絶対的多数であったとして、それのどこが主流となり得る要素なのか。
ここでいう主流というのはしかし、実質的価値としての主流であり、且つ、ない。
真実今、小説と言えば小説のことを指すのだし、過去の文学を持ち出してこれが主流だなどと叫んでみても蔑みの目を頂くばかりだ。
ならばやはり、普遍的主流とは現代人の多数決によって決められているのは事実であり、そこに絶望する以前に私はそれに同意させられ、してしまっている。

個人が集団と化す事で衆愚化することは散々言っている通りだが、現代潮流に乗ろうとすればそれは紛れも無く集団となることであり、そして集団には集団の常識が適用される。
さて最初に個人における原初体験の話をしたが、今、新たに生まれた子供が原初体験として現代小説以外の文を体得する確率はいかほどか。
しかし私にはどうにも、この確率があまり高いようには思われない。
子供が最初に読んでもらう本は絵本と相場が決まっているし、買い与えられる本はベストセラーな古典的文学だ。
子供はテレビを見て育ち、バラエティや子供向けアニメを知り、雑誌に手を伸ばしたりする。
この過程において、書店に並ぶ現代小説に率先して手を伸ばす少年少女がどれほどいることか。
むしろどちらかと言えば、それ以外の方向に伸びる子供が少なくないように思われ、それは数十年前から、あるいはもっと昔からそうであったのではないだろうか。

そうすると、何故現代小説が現代文学の基準となって君臨しているのか、疑問を覚えるというものだ。
そこに結論をつけるとすれば、現代文学と言うのはあくまで、現代集団の衆愚的模範規範装置であって、その存在が実質的に無価値であっても、集団の理想的基準となっているのではないか。
そこにおいて、個人の原初体験はあくまで個人のものであって、集団と化す過程において封じ込められるものであるが、何故それが過去から現代まで通して続いてこられたのか。
加えて、その抑圧された力は何処に向かっているのだろうか。

網という名のハコ

君の脳みそ溶かしつくして〜電波ソングとループの甘いワナ - たまごまごごはん
を読んで、またニコニコ動画他を実地体験して文を書く。

一人の男がリズムを取っているとしよう。
次に、その男が見た目ミュージシャン的な長髪だったとする。
この男を見て「ああ、ミュージシャン気取りなのかな」と思うのはつまり、見た目による要素が大きい。
次に、その男が見目麗しく、気さくな人柄であったとする。
この男に、「男くんって音楽やったりするの?何の曲?」と聞きたくなるかもしれない。
これはこの男が誰とでも話せるという要素と、話し掛けたらコミニュケーションが成立しそうだと見せる人柄を持つことによる効果が大きい。
最後に、その男がステレオタイプなヲタク像、つまりはチェックなシャツにケミカルウォッシュのジーンズ、冴えないメガネを掛けていたとする。
この男を見て「うわー、あいつなんかやってるよ…近寄りたくないな」と思うのも致し方ない。
なぜならその思考は、その男が一般社会における忌避されるべき格好をしていて、その結果「こいつはコミニュケーションが取れない・取ろうとしない」と見られてしまうからだろう。


さて、一般に言うクラブに足繁く通うのは上記のどのタイプの人間か。
おおよそ、上記二人だろう。付け加えると、音楽をやっていそうな人間というのはこの後話しに出てこない。

何故最後の男は人前でそういった行動を取るにも関わらず、公衆の場に姿を見せないか。
それはそこが公衆の場であるからだ。
公であることとは、つまり匿名でないことであり、自分のすることがそのまま他者における自分像と直結するからである。
しかもその自分像はイコール自分であり、至極当然ながらその自分として生きていかなければならない。


ライブを見に会場やらハコに行けば判るが、演奏者から見てファン集団の一人である自分と言う存在は、しかし隣の人とは別の人間であり、そこには集団と一体化した自分と同時に一個人として存在があると言え、当然でありまた奇妙でもある。
故に、ライブに行けば自分を忘れられるだとか、クラブにいる自分は自分じゃないだとか、そういった感情は浅はかな思考だと言える。
現実にいる以上、そこには紛れもない現実の自分が存在している。


さてwebという媒体は、紛れもない虚構の自分を作り出すことが出来る。
当然『リズムを取っている自分』という存在すらも虚構と置き換えることが出来、そこでは真実自らを捨てることが出来る。(細かい制約はこの際二の次だ)

ニコニコ動画という『ハコ』は、参加者である自分が『完全な匿名』であり、しかしながら自らの視点次第では(あくまで自らに限定して)その匿名な自分を自分と認識することすら可能なのだ。
これが何を起こすか。
上記の最後の男がそれ以外の男と決定的に違うのは双方向やら片道でのコミニュケーション能力であろう、そして、現実のコミニュケーション能力とは自分も向こうも現実の人間であることを前提に存在している。(それ以前の人間は論外だが)
つまり、彼らは(回りくどい言い方をしてしまったが)彼らの彼らによる彼らのためのハコを用意したと言える。


たまごまごさんが言うに、

しかし電波ソングは、今でこそ色々なイベントがあるものの、基本的にPCのスピーカーから流れてくるもの。さすがにPCの前で踊るわけにもいきません。それでも自分も電波ソング大好きなので色々聞いて一人で悦にいっていたわけです。

が、一気に「ニコニコ動画」がブレイクしたもんだからもうもう。ダンスフロアーができちゃったじゃないですか。

ループさせて、軽いトランス状態になっているときにそれを誰かと共有できると、トランスは加速します。

ちょうどいい具合にニコニコのブレイクとアイマスがぶつかったんでしょうね。おそらくこの、音楽ですらない無限ループMAD攻勢は、みんながネット上で「踊れる場所」を求める限り続きそうです。

とある。

正にこの部分には強く同意する。
あくまで網の上にあるからこそ、この箱は成立している。
ダンスフロアーで踊るのは名も知らない、素性も知らない人間ばかりであって、そこに溶け込むためには現実の自分と多少なりとも剥離を起こさなければならないだろう。

このあたりが難しい線引きであるが故に、『網の外』に出たハコで踊れる人間というのは、つまり普通の人間だけだ。
オフ会もそうだが、現実の自分と虚像の自分の関係を把握していないと、手痛いしっぺ返しを食らうのは目に見えている。


あと真は俺の嫁