生きること自体の価値

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/934300.html
を見て。
自分の話ではない。


少なくとも、今認識できる限りの人間は皆生きているわけだが、そもそも生きてるの定義がわからない。
医学的な定義を指すのだろうか。
とすれば、瞳孔が開ききっていなく、呼吸をしていて、脳が動いている人間が生きている人間と言うことになるが、それを一人一人確認する術はない。
だから僕は何も信じられないとか、そういうことではない。
加えて言えば、僕自身自分が上の項目に該当しているかどうかなんて正しく判りえない。
とはいえ、皆が生きていることにしないと話は進まないから、ここでは断定的に皆が生きていることにする。


本質的に言いたいのは上のような学術的なことではなくて、多くの人間が『生きることそれ自体に価値がある』と考えているというくだりについてだ。
だから彼らは、死を選んだ人間に価値はないと主張するか、あるいは思う。
裏返せば、他人や自分は生きているからそれだけで価値があると思っている。
故に価値のある人間は、価値のない故人間をそれだけで一種区別できるという妄想に囚われている。
これは、いわゆるゆとり教育だとか、団塊世代に似ている。
違うのはそれが不可逆的な物なのか、それとも不可逆以前に変わらない物なのかというてんであるが、本質的な意味として、ゆとり教育を受けた人間と、団塊世代の人間と、死んだ人間というのは何ら変わらない意味を持つ。
何故なら挙げた全ての人間は自身ではもうどうすることも出来ないにも関わらず、絶対的多数に(時間経過で代わり行くが)よって何の証明も必要とせずに、非難の対象となり得る存在であるからだ。
また、それらを非難する行為は、非難するもの自身の相対的な価値を上げることにも繋がり、安易な自己実在証明となるから、手段として多用される。


ステレオタイプな物の見方として、死んだ人間は弱いという考え方がある。
自分にやれた(生きてこられた)のだから他人に出来ないはずはないという、極めて自分中心主義の考え方でもある。
理解力が足りないか、あるいは明晰出来ていない。
また、人間は死なないものであるという見方をする者も多い。
今生きているここが、たまたま生でいつづけることを選んだ者の集合であって、そこに自分があるということが、何の意味を持つのかということは考えなければならない。
別段死亡すること自体に恐怖は存在せず、その恐怖はコミュニケーション社会からの脱落に起因する。