文章の価値、文学先入観

誰しも原初体験を持っている。
そしてその全ての出来事が一つの出来事から発生したのだ、という考え方は非現実的で、もしその考え方をするなら文学も発生源を宇宙とかに求めることになるはずだ。
故に、個人における原初体験というものはあくまでその人が最初に出会った一つの体験であって、その体験が世間一般あるいは模範的な解答に於いて普遍的な一致をするということはまずありえない。
例をあげてみると、ライトノベルで始めて活字を知り、読み進め、独自の価値観を知った少年は、それ以後に読んだ文学を『これはライトノベルとはこう違い、こう同じだ』と判断するであろうが、その価値観の基準にライトノベルがあるのはあくまで彼がライトノベルという環境で成長してきたからであり、別の人に言わせれば、その文学はライトノベルを基準に考えるべき文学ではないと捉えられることもしばしと言える。


さて私達が常日頃現代文学と呼ぶ小説を基準として考える、現代における普遍的な考え方をする人物がいたとして、彼は本当に人類として普遍的な存在であろうか、いや言うまでもなくそんなことはない。
普遍とは何か、を追求するまでもなく、彼は現地球上で普遍的存在では勿論無い。
過去の人間の普遍的基準であった過去の文学は現代に於いて過去の文学であるから、つまり普遍的基準と呼べるものは存在しない。

現代における主流が現代小説であるという見方においては勘違いも甚だしい。
何を持って主流としているのか。
売れているからか、歴史があるからか。
文学の面白さなど、個人の価値観で決まるものであるし、その現代小説を面白いと言う現代人が絶対的多数であったとして、それのどこが主流となり得る要素なのか。
ここでいう主流というのはしかし、実質的価値としての主流であり、且つ、ない。
真実今、小説と言えば小説のことを指すのだし、過去の文学を持ち出してこれが主流だなどと叫んでみても蔑みの目を頂くばかりだ。
ならばやはり、普遍的主流とは現代人の多数決によって決められているのは事実であり、そこに絶望する以前に私はそれに同意させられ、してしまっている。

個人が集団と化す事で衆愚化することは散々言っている通りだが、現代潮流に乗ろうとすればそれは紛れも無く集団となることであり、そして集団には集団の常識が適用される。
さて最初に個人における原初体験の話をしたが、今、新たに生まれた子供が原初体験として現代小説以外の文を体得する確率はいかほどか。
しかし私にはどうにも、この確率があまり高いようには思われない。
子供が最初に読んでもらう本は絵本と相場が決まっているし、買い与えられる本はベストセラーな古典的文学だ。
子供はテレビを見て育ち、バラエティや子供向けアニメを知り、雑誌に手を伸ばしたりする。
この過程において、書店に並ぶ現代小説に率先して手を伸ばす少年少女がどれほどいることか。
むしろどちらかと言えば、それ以外の方向に伸びる子供が少なくないように思われ、それは数十年前から、あるいはもっと昔からそうであったのではないだろうか。

そうすると、何故現代小説が現代文学の基準となって君臨しているのか、疑問を覚えるというものだ。
そこに結論をつけるとすれば、現代文学と言うのはあくまで、現代集団の衆愚的模範規範装置であって、その存在が実質的に無価値であっても、集団の理想的基準となっているのではないか。
そこにおいて、個人の原初体験はあくまで個人のものであって、集団と化す過程において封じ込められるものであるが、何故それが過去から現代まで通して続いてこられたのか。
加えて、その抑圧された力は何処に向かっているのだろうか。