網という名のハコ

君の脳みそ溶かしつくして〜電波ソングとループの甘いワナ - たまごまごごはん
を読んで、またニコニコ動画他を実地体験して文を書く。

一人の男がリズムを取っているとしよう。
次に、その男が見た目ミュージシャン的な長髪だったとする。
この男を見て「ああ、ミュージシャン気取りなのかな」と思うのはつまり、見た目による要素が大きい。
次に、その男が見目麗しく、気さくな人柄であったとする。
この男に、「男くんって音楽やったりするの?何の曲?」と聞きたくなるかもしれない。
これはこの男が誰とでも話せるという要素と、話し掛けたらコミニュケーションが成立しそうだと見せる人柄を持つことによる効果が大きい。
最後に、その男がステレオタイプなヲタク像、つまりはチェックなシャツにケミカルウォッシュのジーンズ、冴えないメガネを掛けていたとする。
この男を見て「うわー、あいつなんかやってるよ…近寄りたくないな」と思うのも致し方ない。
なぜならその思考は、その男が一般社会における忌避されるべき格好をしていて、その結果「こいつはコミニュケーションが取れない・取ろうとしない」と見られてしまうからだろう。


さて、一般に言うクラブに足繁く通うのは上記のどのタイプの人間か。
おおよそ、上記二人だろう。付け加えると、音楽をやっていそうな人間というのはこの後話しに出てこない。

何故最後の男は人前でそういった行動を取るにも関わらず、公衆の場に姿を見せないか。
それはそこが公衆の場であるからだ。
公であることとは、つまり匿名でないことであり、自分のすることがそのまま他者における自分像と直結するからである。
しかもその自分像はイコール自分であり、至極当然ながらその自分として生きていかなければならない。


ライブを見に会場やらハコに行けば判るが、演奏者から見てファン集団の一人である自分と言う存在は、しかし隣の人とは別の人間であり、そこには集団と一体化した自分と同時に一個人として存在があると言え、当然でありまた奇妙でもある。
故に、ライブに行けば自分を忘れられるだとか、クラブにいる自分は自分じゃないだとか、そういった感情は浅はかな思考だと言える。
現実にいる以上、そこには紛れもない現実の自分が存在している。


さてwebという媒体は、紛れもない虚構の自分を作り出すことが出来る。
当然『リズムを取っている自分』という存在すらも虚構と置き換えることが出来、そこでは真実自らを捨てることが出来る。(細かい制約はこの際二の次だ)

ニコニコ動画という『ハコ』は、参加者である自分が『完全な匿名』であり、しかしながら自らの視点次第では(あくまで自らに限定して)その匿名な自分を自分と認識することすら可能なのだ。
これが何を起こすか。
上記の最後の男がそれ以外の男と決定的に違うのは双方向やら片道でのコミニュケーション能力であろう、そして、現実のコミニュケーション能力とは自分も向こうも現実の人間であることを前提に存在している。(それ以前の人間は論外だが)
つまり、彼らは(回りくどい言い方をしてしまったが)彼らの彼らによる彼らのためのハコを用意したと言える。


たまごまごさんが言うに、

しかし電波ソングは、今でこそ色々なイベントがあるものの、基本的にPCのスピーカーから流れてくるもの。さすがにPCの前で踊るわけにもいきません。それでも自分も電波ソング大好きなので色々聞いて一人で悦にいっていたわけです。

が、一気に「ニコニコ動画」がブレイクしたもんだからもうもう。ダンスフロアーができちゃったじゃないですか。

ループさせて、軽いトランス状態になっているときにそれを誰かと共有できると、トランスは加速します。

ちょうどいい具合にニコニコのブレイクとアイマスがぶつかったんでしょうね。おそらくこの、音楽ですらない無限ループMAD攻勢は、みんながネット上で「踊れる場所」を求める限り続きそうです。

とある。

正にこの部分には強く同意する。
あくまで網の上にあるからこそ、この箱は成立している。
ダンスフロアーで踊るのは名も知らない、素性も知らない人間ばかりであって、そこに溶け込むためには現実の自分と多少なりとも剥離を起こさなければならないだろう。

このあたりが難しい線引きであるが故に、『網の外』に出たハコで踊れる人間というのは、つまり普通の人間だけだ。
オフ会もそうだが、現実の自分と虚像の自分の関係を把握していないと、手痛いしっぺ返しを食らうのは目に見えている。


あと真は俺の嫁