黄泉

死後の世界は実質無いわけで、無い故にある想像をするわけだが。

現状の宗教やら倫理観やらが死者の冒涜を禁じるわけで、どうにも疑問を覚える。
というのも、随分無駄なことをしているなあと思うわけです。
念のために言っておくと僕は完全に効率主義な人間ではないので、別に死者に対する念を行動をしきたりを無駄だと言っているわけではない。
死者というのは口を持たない。また、意識を持たない。持たないが故に持っていると信仰するわけだ。

死者を尊重する理由はなんだろうか。
多分、その理由の一つに死者が自らの手の届かなくなった存在であるということがある。
手が届かないからこそ敬うべきであり、崇めるべきであり、祭るわけである。
そして同時に、自分がいずれそうなるのであるから、自らの保身の為にもそこ(黄泉)をより良きものと、生きているうちに定義しているのではないか。

ここで疑問に思ったのが、死者を何故冒涜しないかということである。
争いは何も生み出さないという理論からだろうか、そう言われることは少ない。
そもそも死後が無いものだ、という認識の上に立つと、死後を敬うなどといった風習は滑稽にしか映らない。
加えて、生きているうちに様々な不可解な、不愉快な出来事が合った場合、そしてそれが自らではどうしようもない理由によるもの、理由のわからないものである場合、現代の倫理観においてはそれをこの世のものでない何者かが解決すると規定される。
これに対し、死後を無とする場合、救いようが無いことになる。
だから私は、死後のものに(無に)全ての責任を転嫁し、短い人生を送ることも一つの解決ではないかと考える。

QOLの曲解に関して。
人生をより高く送る為にも、死後を冒涜することは有効ではないかと思われる。
死後には何も持っていけない。
そもそも何も無い。
人生における諸悪の根源は死が生み出しているのであり、自らの不幸の発端は死である。
そう考えると、全ての原因である死というものは避けられない事実であるが、それは故にすべての後に待っている存在であることになる。
その原因に転嫁するまでの手法はともかく、死を迎える瞬間にその原因が発露するわけだが、その瞬間僕はもういない。
全てをうやむやにして、未解決にして、保留にしたままでも、全てが無に帰す。清算される。

死とはつまりカタルシスの一つであり、その解決法としての有効性は計り知れない。
死後の幸福などは存在しない。
故に生前に全ての幸福を使い切ってしまうのがいい。