半ズボンの少年性と愚鈍なるファッション性

http://www.sankei.co.jp/seikatsu/seikatsu/070207/skt070207000.htm

緊急事態と言ってもいい。
男の子の半ズボンは断じて守られなければならない。
記号的要素としての少年性は言うまでもなく、運動に適している故の間接的な少年性の増大という意味でも半ズボンには相応の価値がある。


過ぎたことはここまでにして、考察。
半ズボンが主流でなくなる、とはどういうことだろうか。
一般レベルでのファッションとはえてして簡単なもので、構図は至極単純だ。
焚き付け役がいて、それに乗じる人がいて、乗らないものが迫害されて、一般化され、また新たに焚き付けられ、迫害される。
その繰り返しであって、流行色などというものはまさにその典型と言える。
もちろん本当の意味でのファッションはそういうものではないと思う人もいるかとは思うが、あくまで一般レベルでの話だ。

では小学校の制服ではどうだろうか。
そこにファッション性は必要だろうか。
僕は不要に感じる、が、あくまでもそれは旧態としての小学校であって、都心に関してはファッション性が必要であると結論付けても良い。
まず普通の小学生の制服がファッションとして良いものである必要性は薄い。
そこにファッション性を求める人は少数派であるし、そこにファッション性があることによって利益を受ける人が少数である。
恥ずかしいものを着せたくない、という親の意見は別に子供を思ってのことではなく、恥ずかしいものを着ている子供を持つ自分を自分としたくない、と考えているに過ぎない。

では都心の小学生はどうか。
さらに突っ込んで言えば電車通学をする小学生はどうだろうか。
ここには、ファッションをしている一般人に見られるという要素が加わってくる。
コミュニケーションを取れない人間が文系社会でどれだけ非難されるかを想像すればわかるように、『皆がしているファッション』をしていないと言うことは致命的とも言えてしまう。
もちろんそこに、「小学生の制服なのだから、これが正しい」という思考が『双方に』働けば問題ない。
あくまで双方に、だ。
見る側が「ダサい」と思ってもダメだし、見られる側が「ダサいものを着ている」と思ってもダメである。
これはとても難しい。


総括して考えて、一般人に見られる機会が多々ある小学生に関しては、一般市民が性悪説的であり、愚鈍であることを考慮すると、制服がファッション要素を取り入れていくことはしょうがないと言える。
上の意見はけして制服だけでなく、普段着にも当てはまると言える。
また、普段着に関して言えば電車通学をする小学生以外も同じである。
彼らには少なからずファッション性が求められ、また愚鈍な世情が彼らを愚鈍たらしめファッション性を求めさせているのだから。